岩坂彰の部屋

第30回 日本人のstoicism

震災でご家族を亡くされたみなさまにはお悔やみを、被災されたみなさまにはお見舞いを申し上げます。

3月11日以降、私が関係する経済系のニュースサイトでも科学系のニュースサイトでも、翻訳内容が津波や原発に関するものばかりになりました。その なかで目を引いたのは、「日本人のstoicism」という表現です。津波の被害を受け避難生活をする人々の様子を表すために、海外メディアがよくこの言 葉を使います。

カタカナで「ストイック」というと禁欲的に自分を律するイメージですが、被災者は別に「禁欲」しているわけではありませんよね。looting(略 奪)が起こらないことも、日本人がストイックだからかといわれても、ちょっとぴんときません。辞書その他の資料によると、英語のstoicism[注1]には、ことにあたって冷静に平然としている、というイメージも含まれるようです。記事の中にはstoicismの同格の言い換えとしてcomposure (落ち着き)を使っているものもありました。

では、被災者のstoicismを、どう訳せばよいのでしょう。上記のように、「禁欲」や「ストイック」という訳語は当てはまりそうにありません。 「冷静」「平静」の部分だけ取り出しても不十分に思えます。実は、外国人記者が日本で取材をしてstoicismと書くとき、それは「我慢」の訳語として らしいのです。和英辞典で「我慢」を引くと、patience、tolerance、endurance、perseveranceと並びますが、 stoicismはなかなか出てきません。しかし、Googleで「stoicism gaman」と検索してみると、被災というこの文脈で、「我慢」に対応する訳語としてstoicismが選ばれていることが分かります。

では、このstoicismは「我慢」と訳せばよいのでしょうか。しかし、被災者が我慢して感情を抑えている外見的な平静さは、composure と言われる落ち着きとは質が違います。つまり、ある文脈で我慢の訳語としてstoicismが選ばれたのだとしても、stoicismという英語はそれ自 体のイメージを持ちますから、その英語的なイメージのもとで議論が進められます。そのロジックは、「我慢」という言葉だけではカバーしきれなくなります。

特殊な異化

被災した方々の振る舞いを表すのにstoicismという言葉が使われるとき、それは当然一つの美徳として紹介されます。しかし記事によっては、その日本人のstoicismが、現在の緊急事態にあたって適切な力を発揮しない政府を容認する土壌になっていると指摘します。

ここで、日本人はもう政府に対して黙っている場合ではないんだぞ、というメッセージをストレートに伝えようとするなら、stoicismに対して基 本的に「我慢」という訳語をあてることで、その目的に近づくことができるでしょう。「自制に基づく冷静な態度」なんて説明的な訳をしていたのでは、メッ セージは伝わりません。

いっぽう、(たとえば)イギリス保守派は日本の状況をこんなふうに見ている、ということを情報として伝えようとするのなら、「我慢」では一面的すぎ ます。あえて(「ストイック」に比べて馴染みの薄い)「ストイシズム」というカタカナを若干の説明を加えながら使うというような対応が考えられます。

「我慢」のように、著者があたかもはじめから対象言語で書いたかのように翻訳する方法を、翻訳理論では〈同化〉[注2]と呼びます。逆に「ストイシズム」のように、読者を原語の方に引っ張っていく方法を〈異化〉[注3]と呼びます。このコラムでも何度か書いているように、どちらの方向を取るかはその翻訳の目的によります。異化は同化よりも読者に労力を強いますが、その分、読者に情報を多く与え、学習をさせ、異文化理解を促します。

stoicismの例の場合、日本語で表現されている日本のことがらが英語で捉えなおされていて、それを再び異化的に日本語にするという、少々特殊 な例になります。我慢からstoicismに変換されるところで一つの文化的橋渡しが行われ、stoicismをカタカナのストイシズムに、つまり最初の 橋渡しそのものを見せる形で異化的に翻訳することで、相違が二重になり、結果として彼我のあり方がいっそう明確になっています。

未来に向けて

海外メディアは、思っていた以上に日本を理解しているようです。単純に日本人の生真面目な一面だけを見て驚いているものが大多数ではありますが、原 発をめぐっては、日本企業の隠蔽体質や政財界の癒着、政界の力学、国内メディアや有権者の姿勢など、多面的な解説をしているものもあります。しかし、日本 人の美徳を賞賛する記事も、日本のシステムの不明瞭さを非難する記事も、どちらも何か本当のところが語られていない気がしてなりません。

日本人が政治に多くを期待していないこと、昔から問題視されてきた原子力発電にあきらめの気持ちを抱いてきたこと、それは我慢の一種かもしれません が、stoicismではないですね。その我慢が何なのかと問い直してみると、どうも私も、自分でよく分かっていないようです。だから、英語の解説を読ん でも何か足りない気がするのでしょう。けれどもあえて言うなら、現在の問題と日本人の国民性のようなものをつなぐのは、たとえばですけれど、テレビで分 かったような分からないような解説をする御用学者たちの薄笑いに対して国民が何を感じているか、といったあたりにあるように思います[注4]

 

日本文化は常に、天災によってではなく、外の文化との関係で変化を起こしてきました。今、海外メディアが日本をどう報じているかを気にするのは、不 安なときには人の目が気になるという心理の反映にすぎないかもしれません。しかし、相互の視線のずれの中に見えてくる自分の姿を見つめ直す機会を得た今、 文化の狭間に立つ翻訳者として、私は、あらためて足元を見直す、たとえば我が身の我慢とstoicismについて考えをめぐらせておく必要があると考えて います。

日本語から外国語への翻訳をする翻訳者には、今、直接的にするべきことがあるでしょう。しかし、日本語への翻訳しかしない私にできることは、もっと 間接的な、日本に新たな文化を積み上げていく作業の一端に加わることでしかありません。この事態の中で、サッカー選手がサッカーをするしかないように、私 も、海の向こう側とこちら側の〈重なるところ〉と〈食い違うところ〉を真っ直ぐに見つめ、翻訳をしていくしかないのです。それがいつか私たちの文化の変化 につながると信じて。

(初出 サン・フレア アカデミー e翻訳スクエア 2011年4月11日)